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【松山幸弘先生 #01】ミネソタ留学から帰国後に脊椎チーフへ

本編に登場する論文

Surgical results of intramedullary spinal cord tumor with spinal cord monitoring to guide extent of resection
Yukihiro Matsuyama, Yoshihito Sakai, Yoshito Katayama, Shiro Imagama, Zenya Ito, Norimitsu Wakao, Koji Sato, Mitsuhiro Kamiya, Yasutsugu Yukawa, Tokumi Kanemura, Makoto Yanase, Naoki Ishiguro
J Neurosurg Spine. 2009 May;10(5):404-13.

── 松山教授はTHE脊椎外科医というイメージがあります。
整形外科の中で専門を脊椎外科に決められたのはいつ頃だったんでしょうか

脊椎外科に進むと決めたのは平成4年です。
私は昭和62年に広島大学医学部を卒業して、平成元年まで半田市立半田病院で働いていました。
まずは、そこで外傷症例の手術を数多くやらせて頂いて、それから異動したのが愛知厚生連渥美病院でした。
当時医局長だった加藤文彦先生に「渥美病院が君のような元気なやつをほしがっているんだ」って言われてですね、赴任してみたら整形外科は3人体制でした。
トップの田川先生は副院長業務もあり、私と一級上の清水哲也先生(現在は外務省勤務精神科医)の2人で実務をやってたんですよ。
本当に全領域の整形外科疾患を渥美病院で経験しました。
田川先生は、しっかり勉強して治療方針を示すと全部任せてもらえる環境でしたので、脊椎手術も100例ほど経験できました。
とはいえ、手術適応の判断も手術手技もまだ未熟でしたので、大学にお電話して先輩に助けに来てもらっていました。
先輩が助手に入ってくれて、自分が執刀医として手術ができ、本当にいい経験でした。
手術後に必ずその手術を振り返り、ここではこう出血するからこう避けるべきだ、など手術のポイントを記載した手術記録を全てファイルメーカープロでまとめていました。
その当時の手術記録はいまだに持っています。またこれが私にとってはバイブルでした。
渥美病院生活は大変充実していたのですが、また加藤医局長から突然朝5時ぐらいに電話があって
「2週間後に大学へ戻って来い、お前は脊椎だ」と、そう言われてですね。

── 朝早すぎませんか?笑

2週間後に大学赴任です。笑
医局長の命令は絶対でしたので、まあ、そんな時代でした。

それで大学へ戻った時に脊椎をやっていらっしゃったのが見松健太郎先生、加藤文彦先生、川上紀明先生でした。
私は一番下っ端で、いろいろ学ばせて頂きました。
見松健太郎先生がやっていた手術は主に脊髄髄内腫瘍でして、多分あのころ日本で一番多くやってたと思いますよ。

── 歴史的に名古屋大学は整形外科医が髄内腫瘍をやっていたのでしょうか?
一般的には脳神経外科医がやることが多いと思います。

名古屋大学の脳神経外科の先生が脊髄腫瘍をやらなかったんです。
脊髄腫瘍の患者さんが大学へ送られてくると整形外科医が診ていました。
髄内腫瘍の手術の際には、私はずっと脊髄モニタリングをやってましたね。

── 当時にも脊髄誘発電位モニタリングは一般的だったのですか?

いえ、現在とは全然違ってですね。
当時はまだ運動誘発電位(Motor Evoked Potential:MEP)なんてなかったです。
何をやってたかというと脊髄刺激―脊髄導出(SC-SCEP)でしたね。
その当時和歌山県立医大教授 玉置先生のやり方を学んで来いって言われ、SC-SCEPを取り入れてやってました。

── 他の施設から良いところを取り入れてたのですね。

そうですね。あの当時は胸椎OPLLも大変な難治症例として認識されていました。
今では固定を併用した後弯を減じての間接的な除圧を行うことが多いと思うのですが、当時は埼玉医大の都築 暢之教授が頚椎から胸椎まで後方除圧して全体として脊髄を後方シフトさせようという方法広範囲椎弓形成術(pan laminoplasty)をやられていまして、そこにも私が見学にいかせてもらったんです。
そこでは、ドイツのデジタイマー社製の電気刺激装置が導入され、経頭蓋的に電気刺激をして両側上下肢の筋電位、いわゆる下行性電位MEPを導出されていました。

すごく綺麗な波形がとれるので驚いて、すぐに見松先生に報告してデジタイマー社製の電気刺激装置買っていただきましたね。
まだ日本全国でも普及してなかったと思いますけど、都築先生から教わったことを導入して我々が始めたのが、1996年前後で私が留学から帰ってきたくらいの時期です。

── 松山先生がミネソタスパインセンターに留学へいかれたのが1995年と伺っております。
何か留学のツテがあったのでしょうか?

名古屋大学で側彎症をやっていた川上紀明先生がミネソタスパインセンターへ留学にいかれていて、Dr. Winterが凄い!!とおっしゃるんですね。
私もミネソタへ留学へいきたくて、当時の教授である三浦隆行先生や講師の見松先生にお願いしたところ、博士号をとってから行けよという事で。
臨床もやり、脊髄再生に関する基礎研究を夜から始める生活になりました。
その頃は脊髄再生治療には末梢神経移植がよかろうと考えられていた時代で、脊髄損傷マウスの脊髄に移植した末梢神経のシュワン細胞がどうmigrate するかを調べたのが私の博士論文なんですよ。

── 臨床もやって基礎研究もやってとなると、かなり大変じゃないですか

楽しかったですよ、まだ体力もありました。
通常の診療や手術を行った後ですから、だいたい実験室に行ったのは夜10時ぐらいから。
FM東京細川俊之のジェットストリームを聴きながら夜中の3時とかまで実験をやったのをよく覚えてますよ。
好きなことは時間を忘れてやりますよね。

── 医学博士となって念願の留学ですね

はい、1995年にミネアポリスに行きました。
当時のミネソタスパインセンターは現在の側彎症学会の重鎮になった先生たちが多く在籍していて、本当に活気のある施設でした
Dyastrophic Dysplasiaの側彎症症例の自然経過と手術後経過をまとめることが私の研究テーマでした。毎日レントゲンを計測したのをよく覚えてます。

── ミネソタスパインセンターでは日本から来た留学生にもデータを触らせてくれたんでしょうか?

当時は現在のように厳しくなくて、手術室にも入れましたし手も洗わせてもらえました。
1年間で側弯症手術を500例以上やっている施設で、症例のデーターベースもその当時からできており、レントゲン保管、そしてカルテサマリーなど研究に必要なものは全て揃っており、素晴らしい経験でした。

── 留学後のお話をきかせてください

私が留学から帰って来た時は、ちょうど教授が三浦先生から岩田久先生になられた時期でした。
脊椎班の先輩方が関連病院にでられて、気が付いたら私が脊椎班チーフをすることになったわけです。

── 帰国してみたら状況が一変してしまっていた、ということですね。
先生のキャリアにとっては良いチャンスと捉えておられたのでしょうか?

チャンスというか必死でしたよ。
大学はその地域においては最後の砦で、他施設へ患者さんを送れないですよね。
いくら難しい症例でも自分たちでやるしかない。
私の経験がない難治症例では加藤先生や川上先生に手伝いに来てもらったりしました。
ただずっと先輩の力を借りてるばかりではいけないという事で、とにかく自分の知識と技術を磨き上げていく必要があり、多くの手術を執刀し、鍛錬しました。

── 脊椎班チーフとしてご活躍され、2007年には准教授になられたわけですね。
今回ご紹介いただく論文は2009年にpublishされた、名古屋大学での脊髄髄内腫瘍手術症例をまとめられたものです。

はい、そうです。
当時、髄内腫瘍の英文論文をたくさん書いている日本人は少なかったですね。
髄内腫瘍は症例自体が少ないですし、また、手術手技や神経学的評価が非常に難しい分野です。
本研究は脊髄髄内腫瘍106例の手術成績をまとめたもので、astrocytomaは12症例、ependymoma は46 症例でした。
神経学的評価は歩行能力に注目してMcCormickのグレードを使っていて、手術前に松葉杖でやっと立てる程度のGrade 3や車椅子のGrade 4でになると手術してもなかなか良くならないことがわかりました。
30%程度の患者で術後神経症状の悪化がみられましたが、Grade1,2の歩行が可能な状態で手術をすると、良好な結果がえられるとの結論でした。
すなわち、髄内腫瘍が見つかったら早神経症状が悪化する前に手術治療をした方が良いということです。

あとは術中脊髄モニタリングが重要。
脊髄髄内腫瘍ですので当然脊髄を切開して腫瘍を摘出するわけですが、もし脊髄機能低下が生じている、つまり麻痺の進んだ脊髄を切開すると弱った脊髄を切ってくことになり、神経症状を悪化させずに腫瘍を摘出することは難しいことです。
そこで脊髄モニタリングが有用となります。
ボクシングで例えると、ボクサーが何回も殴られて一回ダウンしますよね。
ダウンする時に、手を休めずにボコボコやられるともう立ち上がれない
ところが一旦ダウンしたっていう時に手を休めて休ませればまた戻ってくる可能性がある 
手術中に電位が落ちたら手を休める。
そして電位が戻ってきたら再開して電位が戻らなければ撤退する。

── 撤退もあるんですね

はい、いくら腫瘍が全摘できても麻痺が残ってしまえば、患者さんにとって非常につらいものになる。
私は多くの髄内腫瘍摘出に携わってきました。
電位が下がってしまい残存腫瘍を残して撤退したとしても、2度目の手術でまた摘出すれば良いという考えで脊髄モニタリングを信頼し、また応用している。
それを強調した論文ですが、JNS spineのレビュアーも私の考えに同意してくれてアクセプトして頂いたのだと思います。

── 脊髄腫瘍のような術後悪くなる可能姓が比較的高い手術って、外科医としてすごく大変な分野だと思います。
それを長い間、ご自身で執刀されているのは、どういう心持ちでやられているのでしょうか

髄内腫瘍だけは後進に簡単にバトンタッチするわけにはいかないんですね。
髄内腫瘍を執刀するには相当経験を積んでないといけません。
脊髄の扱い方、マイクロの倍率を最大にして手が繊細に動くかどうか、また微細血管の処理の仕方が上手くないと容易に出血し術後の成績も如実に悪くなるんですよ。
脊髄切開は後正中裂で行うことが多いのですが、切開位置がズレると重度後索症状が出ます。
助手を何回やったから「はいどうぞ」っていうわけにはいかないんです。
だから、しっかりと手術を後輩に教えなければならないという使命感があります。。
名古屋大学では今釜先生にずっと私の助手になってもらってやってましたし、私自身も見松先生の助手として長いことやってきたのです。
どのようなハンドリングをするかとか、手術の引き際とか、腫瘍が見つからない場合はどうしたらいいのかとか、脊髄後正中裂アプローチとか、すごく繊細なんですよね。
だから、たまたま患者が来たら手術やるかっていうものではないです。
脊髄髄内アプローチ、腫瘍摘出のノウハウは是非後輩に伝授すべきと痛感しています。
あとは、硬膜内髄外腫瘍であっても髄内腫瘍を扱えない人がやると危ないこともあります。
繊細な手術操作を顕微鏡を用いてスムースな手つきでできるようにしておく。
そうすると、どんな難症例でも対応できるし、自分の自信にもつながるんだ、ということをよく若い先生に言っています。
困難なものに常にチャレンジしてないと、いざという時に困ります。

#02に続く

こちらの記事は2021年1月にQuotomyで掲載したものの転載です。