手術室でも医局でもない、
外科系医師に開かれたオンラインでの研鑽場所

【長尾正人先生 #02】アメリカでの臨床、そしてキャリアチェンジ

── アメリカで臨床をやると決められました。
Dr. Chaoの研究室に通いながらUSMLEの勉強を始めたのでしょうか?

Dr. Chaoの下での研究生活で1年が過ぎた頃に、アメリカで臨床をしたいと思い立ちました。
もう卒後10年以上が経っていましたから、どうしようか悩みながらも情報を集めましたね。
国家試験が終わったばかりの札幌医科大学の後輩に教科書を船便でアメリカに送ってもらったりしていました、笑。

── 奥様の反応はどうだったのでしょうか?
日本に帰りたいとか、考えが異なっていたりはしませんでしたか?

「好きにしたら?」って。
このまま日本へ帰国したら、旅行以外でアメリカに来ることはもうないと思う。
もしアメリカで何かやりたいのだったら、頑張ってみてもいいんじゃない?って。
妻も最初は英語で苦労していたようですが、2年目からアメリカ生活に慣れてきて、研究も上手く進んでいたようです。
あとは、当時まだ子供がいなかったので、大人の事情だけで物事を決めることができました。

── 奥様、素敵です!

Dr. Chaoの研究室で2年間過ごした後に、USMLEの勉強をし、ECFMG Certificateを取得しました。
Dr. Chaoに相談したら、ジョンズ・ホプキンス大学の人工関節グループの先生を紹介してくれました。
正式なポジションを用意することはできないけど客員講師という肩書きをくれる、という話になりました。
そこで初めてアメリカの臨床を覗いた、って感じですね。

── 凄い、アメリカでのキャリアが進み始めています。

その人工関節グループには3名のアテンディング・ドクターがいました。
ある時、その中のひとり、Dr. Michael Montが同じメリーランド州のボルチモア・サイナイ病院整形外科に異動することになったのです。
新しく関節外科部門を立ち上げるという話だったようで、彼と何の気なしに会話しているときに「そういえば、君、俺についてこないか?」みたいな感じで誘われたんです。

Dr. Montは最初、私がECFMG Certificateを取得しているとは知らなかったはずですから、小間使いできる人材が欲しかったのでしょう、笑。
その後に「ECFMG持っているよ」って伝えたら、いきなり彼がいろめき立ちました。
ボルチモア・サイナイ病院の事務に話を通してくれて、クリニカルフェローのポジションを公式に作ってくれたんですね。
そうして、フェローの立場で臨床ができることになりました。
ジョンズ・ホプキンス大学に残る選択肢もありましたが、客員講師という立場で一年やりましたので、また同じ生活なら別の病院に行くのが楽しいかなと思い、ボルチモア・サイナイ病院へ行くことにしました。
Dr. Montと私とphysician assistantと3名で、朝から晩までビッシリ臨床漬けの生活になりました。
1日が終わると、もうクタクタです。
1年間で600例くらい股関節と膝関節の人工関節手術をしましたね。
毎日が充実して、すごく良い経験になりました。

── 新しい環境に飛び込まれていて凄いです。
その後のキャリアはどうなっていくのでしょうか?

フェローは手洗いしたり、外来を見たりなど、診療行為はできるけど、決して独立して診療はさせてもらえなかった。
必ずアテンディング・ドクターの指導を受ける 、あくまで研修を受ける立場なのですね。
アメリカでは、医学部を卒業したら、整形外科の場合は5年間のレジデント期間を過ごします。
その後に1-2年間のフェローをやって、どこかの病院に就職していきます。
僕はレジデンシーをやっていなかったので、アメリカの整形外科専門医がとれない。
整形外科の専門医機構にも問い合わせたりしましたが、答えはアメリカで5年間のレジデンシーを受けていないとダメ、というものでした。

日本に帰るか、アメリカに残ってレジデントをやるか、、、
人工関節の手術を1年間で600例も経験して、日本でしたら何年もかかることをやらせてもらったので、もうこの辺で日本に帰ろうかとも考えました。
アメリカでレジデントをやるとすると、そもそも何科のレジデントになるのか、から考えないといけません。
日本のように好きな診療科に進めるとは限らないので、アメリカの医学生と一緒になってマッチングから再スタートなのですよ。
自分の人生において選択の山場でしたね。

リハビリ科へのキャリアチェンジ

アメリカの整形外科レジデントの生活は、日本もそうでしょうが、夜中まで手術したり緊急で呼ばれたり。。。
当時の年齢が40歳を超えてましたから、そういう体力的にハードな生活を5年間やり直すのはどうかな、と尻込みしていました。
また、アメリカの医学生にとって整形外科は人気の診療科で、外国人がマッチングされることも非常に難しいという現実もありました。
ちょうどその頃、「自分なら手術ができなくなってもリハビリ科に進むよ」というアドバイスをくれた整形外科の先生がいたのです。
そこから、アメリカのリハビリテーション医学について調べてみると、半分は神経内科、そして半分は整形外科に近い領域だな、と。
これなら自分の整形外科の知識を活かせる研修が過ごせると思いました。
それでリハビリテーション医学の4年間のレジデンシーに進むことにしたのです。

── ニューヨーク州のオルバニーメディカルセンターでレジデンシーされるのですね。
ご家族はどうされたのでしょうか?

話が少し前に戻りますが、ボルチモア・サイナイ病院に移る前に娘が産まれました。
私も妻も働いていましたので、日中はベビーシッターを雇っていたんです。
メキシコ出身のすごく良い人だったのですが、同世代の二人の男の子がいて、つまり日中に娘を含めて三人の子供の面倒を見ていたのですね。
そうしたら、娘が初めて喋った言葉がスペイン語だったんですよ。

17時くらいに子供を引き取っても20時には寝てしまうので、3時間くらいしか日本語で話しかけられない。
朝にあずけてから夕方に引き取るまで、ずっとスペイン語に浸っているわけです。
この調子でいくと日本語が話せなくなると不安があって、それで妻と相談して、私がオルバニーに移る時に妻がNIHをやめて一緒にニューヨーク州へ行くという話になったのです。

オルバニーメディカルセンターでのレジデント時代。中央はリハビリテーション医学のチェアマン(当時)のDr. George Forrest。

── 4年間のレジデンシーのあとはリハビリ科のフェロープログラムに進むのでしょうか?

リハビリテーション科だと脊髄損傷とか脳卒中とか色々なフェローシッププログラムがあります。
けれども、私はもう歳が歳だったので、フェローに進むのはやめて、レジデントの後は職を探し始めました。
レジデント4年目になると、他のレジデントは次のフェローどうする?みたいに進路を考え始めるのですけど、私はリハビリ領域のジャーナルに掲載されている求人募集をチェックしていました。

自分のバックグラウンドが整形外科でしたので筋骨格筋系の領域で求人広告を探しました。
それから、メリーランド州からニューヨーク州と東海岸の生活でしたので、できれば次は西海岸で働きたいな、と。
そして若い人と一緒に働けるような教育病院で勤務したいと思っていました。
そういう条件で探していたところ、求人広告を出していた中にカリフォルニア大学サンフランシスコ校がありました。

#03に続く

こちらの記事は2021年3月にQuotomyで掲載したものの転載です。