手術室でも医局でもない、
外科系医師に開かれたオンラインでの研鑽場所

【松田秀一先生 前編】Almostでいいと考え始めたら進歩は終わる。常にperfectを目指せ

本編に登場する論文

Knee kinematics of posterior cruciate ligament sacrificed total knee arthroplasty.
Matsuda S, Whiteside LA, White SE, McCarthy DS.
Clin Orthop Relat Res. 1997 Aug;(341):257-66.

Femoral condyle geometry in the normal and varus knee.
Matsuda S, Matsuda H, Miyagi T, Sasaki K, Iwamoto Y, Miura H.
Clin Orthop Relat Res. 1998 Apr;(349):183-8. doi: 10.1097/00003086-199804000-00022.

── よろしくお願いします。先生が九州大学をご卒業された後に、最初に整形外科医を目指した理由を教えてください。最初から整形外科医を目指されてたんですか?

うちは父親が熊本県の天草市で整形外科医をやっていまして、だから外科系に進みたいというのは、前から希望としてあったんですね。実際、いろんな診療科を学生の時に見ていると、肝臓移植なんかも始まった頃で移植外科も魅力的に思えたんですけど、やっぱり整形外科の手術が面白そうだなと思い結局整形外科になりました。手術が面白そうだなと思ったのが、やっぱり1番ですかね。

── ありがとうございます。九州大学の整形外科医局に入って、最初はいろいろな病院をローテーションするような制度だったのでしょうか。

そうですね、1年ごとに病院を異動するシステムでしたね。
実は整形外科医になってすぐに体調崩してしまい、、、どうでしょうかね、2-3か月ぐらい入院したかな。医師として出だしのスタートだったので、最初は辛かったですね。

── みんなが医師として活躍していく中、自分だけ病室にいるっていう。。。

そうです。寂しいスタートでしたね。ただ、周りの先生だったり、あと自分が担当した患者さんがお見舞いに来てくれたりして。こんな自分でも少しでも役に立ってるのかなと思いながら、1日中ラジオ英会話なんか聞いて過ごしてました。
医師は死なない程度に病気した方がよいとも言われますけど、患者にとって医師に病室に来てもらえることが本当にありがたいことなのだと肌で感じることができました。
患者側は色々聞きたいこともある。その質問にきちんと答えられるように医師は勉強しなくちゃいけないなとも思いました。
入院すると暇ですよ。楽しいことは主治医に会うことと、3度の食事だけなんですよね。

── その後、1993年にセントルイス(ミズーリ州)のBone and Joint Centerへ留学されています。こちらの留学先とは九州大学整形外科教室との関係性があったのでしょうか。

そうなんです。そういう意味で、私は楽をさせていただきました。
元愛媛大学の整形外科教授でいらっしゃった三浦裕正先生が最初に行かれた留学先でした。三浦先生は最初ご苦労なされたと思うんですけど、素晴らしいお仕事をされて、その後に教室から度々留学生が行かせていただきました。私で5人目ぐらいでしたので、日本人にも結構慣れてらっしゃる留学先でした。もちろんそれなりの苦労はあるんですけど、先輩方のおかげで本当に充実した留学生活を送らせていただきました。

── そこで、先生の最初の論文であるKnee Kinematics of Posterior Cruciate Ligament Sacrificed total knee arthroplasty​を書かれています。

ボスであるWhiteside先生のアイデアで、こういうことを調べてくれと言われて書きました。彼はすごく臨床家で、手術中に起こった疑問はラボで解決したい、バイオメカニクス的にどうなってるかってことをすぐに調べたい、という人だったんですね。アイデアの源泉がWhiteside先生で、私らはそれを確かめてみるという役回りです。週に1回「What‘s New?」とか言ってくるんです。少しストレスではありましたけど、そういう風にして進捗を見てもらいながら研究を進めていました。本当に1から10まで教えていただきました。

── 臨床医だった松田先生が海外でKinematicsの研究をやるのは大変だったと想像します。九州大学の研究室で経験されていたのですか。

いや、やってなかったです。恥ずかしながら、人工膝関節手術を10例もやったことないような状態で留学に行っています。最初の頃、屍体膝で実験していた時にPCLを残しておくべきで、間違ってPCLまで切っちゃって、ラボのテクニシャンからえらい怒られたことを覚えています。論文自体も全く書いたことなかったので、メディカルライターの女性にどういう風に書くかっていうのを教えてもらいながら、Whiteside先生にも論文見てやるって言われて。あれはちょうど1月1日でした。アメリカ人は新年をそこまで大事にしてないのか、正月の昼間にWhiteside先生のご自宅に伺って論文を見ていただいたという記憶があります。
基礎研究を日本でやってなかったので、英語の教科書を読んだり、日本から本を取り寄せて1から勉強していました。

── 素晴らしい。留学中に臨床に対する姿勢も学んだと伺いました。

「Almost(大体)でいいと考え始めたら、進歩は終わる。常にperfect(完璧)を目指せ」です。何かのディスカッションで、僕がポロっとAlmostっていう言葉を使ったんです。そしたら「Almostだったら別に何もする必要はない」とWhiteside先生に言われましたね。「とにかく完璧に、より良いものを目指す。ほとんど良いっていうことに満足していたら、進歩はない」と言われたんですね。常に完璧であることは難しいんですけど、医師としてあるべき姿としては、1人の患者さんも残さず幸せにすることを目標にしてやるべきだなということを思いました。この言葉はずっと大事にしています。

── Whiteside先生とは引き続きご関係は続いてらっしゃるのですか。

そうです。アメリカで行った仕事の論文発表がしばらく続いたりとか、彼のアイデアでこっちの臨床でやったことを論文にしたりして、それを向こうも参考にさせてくれ、とか。アメリカのKnee Societyっていう学会に入れてもらった時も推薦状を書いて頂きました。つい最近、Knee Society Lifetime Achievement Awardという、本当にレジェンドの先生しか取れないようなアワードがあるんですね。それにアメリカの友人たちとWhiteside先生を推薦して、Whiteside先生が受賞したのです。

── 素晴らしい。

ちょっとだけ恩返しができました。

── 留学から帰国された後は山口赤十字病院にお勤めで、次の論文を書かれていると思います。セカンドに松田秀雄先生という方がいらっしゃるんですけども、こちらはご家族ですか?

マイファーザーです、笑。
正常膝と変形膝を30例ずつ大腿骨形状の違いをMRIで評価するという研究だったのですが、正常膝のMRIのデータがなかったので撮ってもらったんです。

── なるほど、確かに急性期病院には正常な人のデータがないですね。クリニックにMRIがあるとピンときて、そこで正常膝撮れるぞってアイデアとして閃いたのですか。

変形した膝の大腿骨形状を述べる際に、正常膝と比べないといけないなと思って。スポーツ外傷の分野だと正常膝のデータがあるのでしょうけど、変形性膝関節症を発症する年代の正常膝を撮りたいとなると難しいですよね。そのリソースがあるということで、父親に協力してもらいました。味をしめて、他の研究でも正座時の膝MRIを撮ってもらったりとか、何回か協力してもらいました(笑)。

── お父さん、嬉しいでしょうね。

いや、どうだったんですかね(笑)。この山口時代の論文は、初めて自分で研究を立案してデザイン組んでやった研究なのですが、わりとすんなり論文が通っちゃったんですね。これで、「なるほど、思ったことをどんどん発信していけば通用するんだ」と自信がつきました。それまでは海外のレジェンドの先生の下で論文執筆をさせてもらっていましたが、どんなところにいてもデータをきちんと取って出せば世界に研究成果を発信できるんだと気付かされました。自分の論文の中で1番自信がついた論文とも言え、その後の考え方とか、進み方を決めた論文だったかもしれません。地方の病院でポツンと1人でやって、きちんとそれがアクセプトされたっていうのは、自分としては大きかったですね。

中編に続く