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外科系医師に開かれたオンラインでの研鑽場所

【#01 島田洋一先生】2つの専門性を極める

本編に登場する論文

Giant cell tumor of fifth lumbar vertebrae: two case reports and review of the literature
Yoichi Shimada, Michio Hongo, Naohisa Miyakoshi, Yuji Kasukawa, Shigeru Ando, Eiji Itoi, Eiji Abe
Spine J. 2007 Jul-Aug;7(4):499-505. doi: 10.1016/j.spinee.2006.01.016.

── まずは島田先生が整形外科を選ばれた理由を教えてください

私は札幌医科大学卒業です。
実は私の父が日本で最初に心臓移植をおこなった和田寿郎先生に憧れていました。
それで札幌医科大学にいかせるって高校のPTAで先生に言って、その二週間後に急死してしまうのです。
だから父の遺言みたいなものだったので、それで札幌医科大学に進学しました。
卒業後は消化器外科医になろうと思っていたので、地元の秋田大学の消化器外科に挨拶にいきました。
その時に、たまたま札幌医大出身の先輩がいて、消化器外科の教授室に連れて行ってもらいました。
教授と話していて、どうも聞いていた雰囲気とは違う人だなと思ったんですけど、「よろしくお願いします」と言って部屋から出た。
上をみたら、整形外科教授室と書いてあって、、、それで整形外科に進むことになりました。

── そんなことがあるんですね!

当時はインターネットも何もありませんから教授の顔も分からなかったのです。
その後は臨床を数年やってから大学院に入りました。
大学院では特発性側彎症の傍脊柱筋の筋電図解析をおこないました。

── 秋田大学の教室で伝統的にやられていたテーマの研究だったのですか?

いえ、テーマは何でもいいから好きなことをやってみろと言われました。
当時は側彎症手術も何もやってない時代で、たまたまモアレトポグラフィーが出てきた頃です。
モアレトポグラフィーを用いた学校での側彎症健診が始まり、その責任者に卒業二年目だった私が任命されました。
それから今日になるまで約25万人の子供の背中を見てきました。
検診で側彎症を見つけれるようになったのは良かったですが、その頃は手術治療という解決策がなかった。
このままではいけないと思い、学位を取得してから側彎症手術の勉強にイギリスとアメリカに留学しました。

── この留学ですけれども、複数の施設を訪問されていますよね。
どういった経緯だったのでしょうか?

秋田大学医学部は戦後に初めてできた新設の国立医学部なのですよ。
歴史がない。
そのため、臨床も基礎も自分のメジャーを二つ持ちなさい、と言われてました。
そこで、私は側彎症をやる脊椎外科医になってリハビリテーション医学もやろうと決意しました。
当時、秋田ではリハビリテーション医学も全く行われていなかったのです。
その2つを自分の専門と決めて、留学場所を選ぶことにしました。
せっかく留学に行くなら1箇所ではもったいない。
それで、当時世界最高のところに手紙を書いて渡り歩いたという経緯です。

── 当時はメールも無いので、手紙のやり取りをされていたのでしょうか?

手紙を書いてお願いしていったのです。
イギリスではMr. エドガーと言いまして当時側彎症手術のイギリスナンバーワンの先生に、
アメリカでは世界トップであるDavid Bradford先生に申請して留学させてもらいました。

── そしてスコットランドにも行かれています。
帰国をはさまずに連続で行かれていたのですか?

スーツケースを持って渡り歩いてましたね。
当時の秋田大学は新設大学で、もうやることがいっぱいあったのです。
先輩もいない。
だからもう自分で何かを見つけてくるしかない。
明治時代初期の人たちがヨーロッパに勉強に行ったのと同じです。

── 先生が特に印象に残ってるのは、どちらの施設なのですか?

もちろんアメリカもイギリスも手術の勉強になりました。
しかし、特に印象的だったのはリハビリテーション医学の勉強に行った、ストラスクライド大学医用工学研究所というグラスゴーの大学院大学でした。
そこで初めて世界的な歩行解析や医療工学を見ることができて、これは凄いなとびっくりしました。
それから自分のやるべき研究内容はこれだと思ってやることにしたのです。

── 秋田大学にはリハビリテーション医学がなかったとおっしゃられていました。
留学で凄いと思ったことを日本に持ち帰ってきたのでしょうか?

いや、日本にはそういう設備の整った施設がないので、知識だけ持って帰ってきました。
帰国後に取り組んだのはオリジナルの機器作りです。

── 凄いです、医師である先生がどうやって作るのですか!?

帰ってきて一番最初にやったことは、工学部教授のところへ行って研究させてくれとお願いした。
この方がたまたま凄い人で、のちに名古屋大学の教授になって副学長まで務められた大日方五郎先生でした。
ロボット工学の制御技術の世界的権威です。
彼と一緒に色んなものづくりをしてる間に、どんどん周りからいろんな人が参加してくれるようになった。
気が付いたら凄いチームになっていて、オリジナルの機器を作ったり、様々な再建をしていました。

── 凄いですね。

── 留学から戻った先生は、秋田大学でどんな臨床をされていたのですか?

わたしは脊椎外科チーフをやっていました。
まだ日本で脊椎外科手術が普及してない時期に留学していました。
Cotrel - Duboussetシステムの脊椎外科手術を留学で初めて見たんですよ。
日本に帰ってきたら当時はまだ一般の脊椎外科医はあまりインストゥルメント手術をやっていなかった。
インプラントがなかったのですね。
椎弓根スクリューがありませんでしたので、前方手術に使うスクリューを椎弓根スクリュー代わりに使用したりしていました。
そのうち椎弓根スクリューが出てきましたけど、日本人にはbulkyでしたね。
阿部先生という先輩がオリジナルのAkita device という椎弓根スクリューシステムを作ったりしました。
韓国でも使われたり、岐阜大学の先生も使われたりして、そのシステムは今でもTotal Spine Systemとして同門で使っています。

── 日本の脊椎インストゥルーメント手術の黎明期ですね。
少し話を戻して、整形外科はいろんな専門分野があると思いますが、先生が脊椎外科医を志したのはなぜでしょうか?

学校の側弯健診の責任者になったこともありますが、脊椎外科が一番派手だったからですね。
脊椎手術ができる医師は他の手術もできるけど、他はそうじゃないというプライドがある。
それで、やっぱりもう脊椎しかないと。
当時は人が少ないから脊椎以外の手術もたくさんしました。
THAもTKAも膝骨切りもやりました。
肩鏡視下手術もやりました。
やっぱりそういう脊椎外科の素地があったからチャレンジできたんだと思いますね。

── リハビリテーション部にも所属されていたと思います。

実際は手術三昧でしたね。

── 最初に先生に御紹介いただいた論文が第5腰椎(L5)発生の骨巨細胞腫に対してtotal en bloc spondylectomy(TES)の症例報告ですね。

岐阜大学の清水教授の症例報告で#ランセットに掲載されたものがあったのですが、ちょうどL6のL5だったので、純粋のL5にTESという報告は当時なかったと思います。
それで学会でお世話になった富田勝郎教授にも聞いたのですけど、「君、これはちょっと、、、」なんて言われてね。
実は、弟が中学校の先生だったのですが、患者さんが彼の教え子だったのですよ。
「兄貴、よろしく頼むな」って言われて、これはなんとして助けてあげないといけない、と。
まあ中途半端にやれば、再発繰り返して悲惨な運命が待ってる。
TESしかない。
他の部位のTESはやってましたので、L5も前方手術とのcomboinedでやれば何とかなるんじゃないかって思っていました。
甘い考えで、そんなもんじゃ全然なくて、、、今でもよくやったなと思います。

── 血管外科医と一緒にやる計画はなかったのですか?

前方も後方も全部自分でやってました。
血管外科医に血管を剥離・展開してもらうという風潮はなかったですよ。
そういう意味では全部自分でできないと怖くてできなかったと思います。
一番困ったのはL5って靭帯がいっぱい付いてて強固なのです。
全然動かないのですね。
特別難しいと思います。

── その手術を二件やられていて論文にされています。

もう沢山ですね、笑。

#02に続く

こちらの記事は2021年8月にQuotomyで掲載したものの転載です。