
【#02 大川淳先生】与えられた道を進む運命論者
本編に登場する論文
Prevalence and Distribution of Ossified Lesions in the Whole Spine of Patients with Cervical Ossification of the Posterior Longitudinal Ligament A Multicenter Study (JOSL CT study)
Takashi Hirai, Toshitaka Yoshii, Akio Iwanami, Kazuhiro Takeuchi, Kanji Mori, Tsuyoshi Yamada, Kanichiro Wada, Masao Koda, Yukihiro Matsuyama, Katsushi Takeshita, Masahiko Abematsu, Hirotaka Haro, Masahiko Watanabe, Kei Watanabe, Hiroshi Ozawa, Haruo Kanno, Shiro Imagama, Shunsuke Fujibayashi, Masashi Yamazaki, Morio Matsumoto, Masaya Nakamura, Atsushi Okawa, Yoshiharu Kawaguchi
PLoS One. 2016 Aug 22;11(8):e0160117.
── 先生と医学教育・医療安全との出会いについて教えて下さい。
ターニングポイントは平成16年に始まった初期臨床研修制度です。
その準備のため平成15年に、各診療科から講師クラスが総合診療部に集められたのです。
新しいシステムが稼働するようにあたって準備をするということですが、その当時に体系化された医学教育は無かったですから、こちらも学ばなきゃいけない。
── 大変なミッションですね。
その頃、先生は脊椎グループで上のポジションだったと思うので、整形外科医局としても抜けられると大変だったのではないでしょうか?
その当時、四宮謙一教授と准教授で私の同期の小森博達先生(現横浜市立みなと赤十字病院副院長)がいらして、講師の私含めてトップから三人が脊椎だったのです。
まあ、必然的にお前行ってこい、みたいな話になって、笑。
実は私は運命論者です。
上からそういう風に言われたら「それが自分の運命なんだ」と思ってそこへ行きましたね。
── アカデミックポジションで上を目指している先生は、なかなかそう思えないかと思います。
その辺りの考えは、教授になるために歩んでる人達と私は少し違います。
私はストレートに教授になりたいわけではなかった。
脊椎の臨床をやってきて、そこでの疑問点を研究してきていますので、プロモーションが目的で研究している訳ではない。
あまりアカデミックポジションへのこだわりはありませんでした。
そこへもって、元から運命論者的な考えを持っているので、「ふうん。まあ、これが自分の与えられた道だな」っていう感じだったのですよ。
── 臨床への未練は無かったですか?
総合診療部へ配属になったら完全に整形外科の臨床がゼロになってしまうわけではなかったです。
自分の患者さんは手術させてもらっていました。
── 年齢で物事を語るのは嫌なのですけど、当時おいくつだったのでしょうか?
それまでずっと臨床中心に医師をやってきて、なかなか新しいことにチャレンジするのが難しかったりする人もいるかなと思いますが。
45-6歳ですよね。
そんなに重く考えていなかったかな、兼任くらいのイメージです。
ただ、医学教育を勉強するのは大変でした。
12月の寒いハーバードに連れて行かれて、10日間くらい合宿させられたりしました。
その間はずっと医学教育の話だけしかしないっていう、特殊な状況におかれて、、、笑
それは私にとってドラマみたいな体験で、そこでマインドセットを変えなきゃいけないって思いましたね。
── 田中雄二郎先生との関わりはその頃からでしょうか?
田中雄二郎先生は現在の学長です。
元は消化器内科で、肝臓の専門家ですね。
平成15年頃に田中先生も医学教育をやれと当時の学長に言われて、消化器内科の助教だったのですけれど、医学教育分野の教授に抜擢されたのですね。
素人が集まって医学教育について「あーでもない、こーでもない」っていう風にやってきて、そこから20年間その上下関係そのままですよ。
素人同士というとおこがましくて、私は教えてもらってばかりでした。
外科系の教育現場では、やはり厳しい指導で教育する、という側面がまだありました。
その点は内科の先生の方が、医学教育という面で先を行っていると思いましたね。
学生や若手への接し方も全然違ったので、私にとってはフレッシュな体験でした。
── 総合診療部で先生方が最初に取り込まれたことって何でしょうか
How to teach、どうやって教えるのか。
あとは、どうやってプレゼンさせるのか。
そして、Doctor-patient relationshipですね。
── 初期臨床研修病院として東京医科歯科大学が大人気と伺っています。
人気の秘訣は何でしょうか?
初期臨床研修医は、ずっと100名以上の募集をしていた訳ですが、1回目だけ取りこぼして85%くらいで、その後はずっと100%フルマッチできています。
これはプログラムがいわゆる「たすき掛け」というやつで、大学と関連病院で1年ずつっていう仕組みに訴求力があると思います。
その他には、東京医科歯科大学は出身大学で区別しないっていうのを最初からはっきり打ち出してるし、研究圧力も強くない。
それと東京に出てきたい人にとって立地も良いなどの理由があると思います。
── なるほど。医学教育に関わって整形外科医以外の人たちと関わることが増えたと思います。
何か気づいたことはありますでしょうか
そうですね、医学教育をやっていて外科医として何かしなきゃいけないって思って、考えたのが医療安全でした。
脊椎外科って怖い思いをするじゃないですか。
脊髄を損傷するんじゃないかとか、術後血腫による麻痺の経験とか。
当時、医療安全は黎明期でした。
医療安全の勉強会に出たり本を読んだりして、それを学生さんにフィードバックする、というようなことを始めたのです。
あとは、大学にも医療安全部っていうのがあって、私も室員になった。
インシデントレポートがあまり集まらなくて、出してもらうように皆に声をかけたり。
医療安全の学問というか、やり方を模索していったのですね。
── インシデントレポートを書く文化がないと、恥ずかしいとか怒られるんじゃないかっていう気持ちがあったりしますよね。
当時の外科医はなかなか書いてくれなかったのです。
「そんなの普通だ」とか、「このぐらいの合併症は織り込み済みだ」って。
インフォームドコンセントに書いてあるかというと、そういう時代なので全然書いてない。
口では言ったとか言わないとか。
けど、カルテのどこにあるんですか?って。
まぁ、そういう時代ですよ。
名古屋大学が医療事故を起こした時の対応(編集者注:2002年8月の腹腔鏡手術中の大動脈損傷による死亡事故)で医療安全のメッカになっていてですね。
夕方から名古屋のセミナーに出席して終電で帰る、なんてことを何回かやりました。

── 2009年から整形外科へ准教授として戻られます。
久しぶりの臨床現場への復帰は大変だったのではないですか。
四宮先生から「そろそろ戻ってこないか」って。
もちろんスッと臨床に戻りたかったのですけど、その5-6年間のブランクってすごく大きくてですね。
戻ってから頚椎椎弓形成術をやってみると、思うようにドリルを動かせないとかで怖いって気持ちを非常に感じたんですね。
自分が脊椎外科医としてやっていくのはちょっと厳しいかなっていうのを感じていたところで、その頃は非常に悩みが多かったですね。
四宮先生は手術がお好きな教授でしたので、退任されるまで手術室にいらっしゃいましたね。
私は自分の患者さんを手術していましたね。
── 2011年に教授にご就任されます。医学教育へ移ったりした中で異例だったのではないでしょうか?
自分としては教授というアカデミックポジションは諦めていました。
講師まで上がった時に医学教育に移っていたので、実は医療安全の方で飯を食って行こうかなと思ってた時でした。
そう考えていた時に四宮先生から声をかけていただいたので、運命論者な私にとっては「声を掛けてもらううちが花」みたいな話です。
四宮先生には、教授になれるように頑張れっていうよりは、今から思うと管理業務能力を見込まれて、そういう係をやらされた、みたいな感じです。

── 今回ご紹介いただく論文は平井先生の頚椎後縦靭帯骨化症(OPLL)に関する論文です。
これは教授になられてからの研究班でのお仕事でしょうか?
教授職になった後に考えたのは、これまでの自分の研究で何がしづらかったかっていうこと。
自分の研究論文を、例えばSpineに掲載されるようなものにしたい。
そういう時に何が足りないかと言うとやっぱりN、Nが足りないですよね。
そう考えた時に、まずは関連病院から症例を集めよう、そして症例を集める仕組みを作ろうと取り組みました。
でも、実は山浦伊裟吉先生時代からそういうコンセプトでやってきた背景があって、実際は病院ごとのデータベースの構築の仕方が異なっていたりして結構難しかった。
次に考えたことは多施設共同研究の1つのキーワードだったALL JAPAN。
国際ジャーナルを見ると、多施設共同研究で出てきてる論文がほとんど。
一つの施設で行う研究だとケースシリーズぐらいで終わってしまい比較研究にできないというのは大きな問題だと考えていたので、全国規模の大きいデーターベースを作ることが必要だろう、とモヤモヤ頭の中では考えていたのです。現在の研究班班長の山崎正志先生も同じご意見でした。
あと、教授になって東京医科歯科大学整形外科の特徴はなんだろうと考えた時に、頚椎OPLL前方手術を伝統的にやり続けていたので、これを打ち出すしかないって考えていました。
そこで、厚生労働省難治性疾患克服研究事業で研究班班長であった慶応大学の戸山芳昭先生に班長をやらせてくださいとお願いしたのですね。
ちょうどその頃、日本医療研究開発機構(AMED)ができた時だったので、研究班の仕事が臨床と基礎でスプリットするタイミングだったのが良くて、臨床部門を我々に任せていただけました。基礎部門を松本守雄先生がやるような形になったのです。
臨床研究を任していただく上で、せっかく班員が何十名か全国にいる訳なので多施設共同研究をやりましょう、全国でデーターベースを作って、そこで世界で通用するようなエビデンスを作りましょうって最初のミーティングで宣言したのですね。
皆に賛同していただいて集めた症例を共同のデーターベースにして、研究したい人がそのデータを自由に使えるっていうのを班会議で作った。

それで作った仕事の第1報がこの論文です。OPLLの形態に関しては川口善治先生(富山大学教授)が、ご自分の豊富なデータの中からOP indexっていうものをSpineに出しておられたので、そのindexを使ってNを十倍ぐらいにして調査したかったのですね。OPLLはそんなに多い疾患じゃないから、自施設で手に入るデータって数十だった時代です。6年間ほど班長を務めましたが、このデータベースから20編以上の論文を生み出すことができました。その後は頚椎OPLL保存治療例を集めるという研究も続いています。OPLLに関してはALL Japanでの研究体制ができたと思います。
── それまでの研究班では集まって単施設ごとの研究報告が多かったのでしょうか?
そうですね、やはり大学ごとの競争な訳です。
東京大学黒川式の椎弓形成、慶応大学平林式の椎弓形成、そして我々がやっているような前方手術があって、OPLLの患者さんが来た時にウチではこれでやってるから、、、って言って終わっちゃうケースシリーズでした。
なかなか単施設では比較研究できないじゃないですか。
それが全部データーベース化して同じプラットフォームで進めれば、施設間の成績差も考慮すべきですが、術式間の差が科学的に検討できる。
だから、そういうシステムが必要だったんですね。
── システムを作ろうと音頭をとってくださったのは、日本の臨床の脊椎外科分野に多大な意味がありますよね。
より希少な胸椎OPLLの研究は、名古屋大学の今釜史郎先生が中心になって頑張ってやってくれています。
もともと、名古屋地域で凄く大きな多施設研究グループを作られていましたけれども、胸椎OPLLは数がないからN=100以上の前向きな試験をやろうとすると全国レベルでやるしかないんですよね。
しかも前向きに短期間で集めることが重要です。
後ろ向きのデザインでやるよりは、疾患にとって重要な項目について正確に色々なことがわかりますから。
合併症率が今まで十パーセントぐらいだったのが、前向きに調査すると四十パーセントに上がったり、でも実は一年後ぐらいで回復するって、新しい知見がわかったりします。
そういうことが非常に良かったです。
#03に続く
こちらの記事は2021年7月にQuotomyで掲載したものの転載です。