手術室でも医局でもない、
外科系医師に開かれたオンラインでの研鑽場所

【長尾正人先生 #01】新たなチャレンジを求めてのアメリカ留学

── 長尾先生が整形外科を志したのはいつ頃からだったのでしょうか?

私が札幌医科大学医学部在学中は、まだ初期臨床研修がない頃でした。
医学部6年生の秋頃に進路を決めるのですけど、多くの学生がそのまま札幌医科大学の診療科医局に所属するような時代でした。
医学部5-6年生時の実習で「自分は外科系だよな」と自覚しつつ、当時は「がん」に対しての外科治療が盛んな時代だったのですが、がん以外の疾患を診ることのできる診療科に進路を考えていました。
あとはスポーツ医学に携わることができる。
その2点から整形外科を目指しました。

── そうだったのですね。
入局後のキャリアについて教えてください。

医学部を卒業して、医局に入ると同時に大学院に入学しました。
札幌医科大学整形外科医局では、いきなり研究を開始するのではなく、一年目は大学病院勤務で、2年目の半年が外病院で、まずは臨床を学ぶ教育制度でしたね。
私が2年目に外病院で研修しているタイミングで、新しく石井清一教授が就任されました。
石井教授の方針で、大学院生は基礎の研究室にいって研究してもらう、ということでしたので、その後の研究は生化学教室で関節軟骨の研究をしました。
基本的にフルに生化学教室で研究をしていて、ときどき北海道の僻地の病院に数日間行って生活費を稼ぐのです。

大学院生活のあとは江差町にある北海道立江差病院に行きまして、当時、整形外科医は私一人でした。
他の外科の先生と外傷手術をしたりしましたね。
大きい手術は札幌医科大学から先生をお呼びして執刀をしていただいたりしました。
そんな時に、札幌医科大学から関節リウマチで有名な国立相模原病院へ国内留学をさせていただける話がでてきて、私に声がかかりました。
国立相模原病院の岩野先生と石井教授が北海道大学の同級生だったのですね。相模原の生活を2年間した後、札幌医科大学に戻って股関節外科医、リウマチ外科医として大学病院勤務をしていました。

── そこからアメリカに渡るというキャリアが非連続的ですね。渡米の経緯を教えてください。

大学に勤めていると、近い学年の先生が研究をするために海外へ留学していました。
帰国してきた彼らが留学報告とかするのを羨ましく思っていたのです。
いつか自分も海外留学したいなと思っていました。
けれども、多くの先生が卒後6-10年くらいで留学していたのに対して、自分はもう卒後10年以上になっていました。
それに、自分は国内留学という形で国立相模原病院に行かせてもらっていたので、もう機会はないかな、と。

── なるほど。伺っていると、たしかに留学は難しそうです。

ところが、北海道大学でPhDとして研究していた妻がNational Institutes of Health (以下NIH)に研究職でいけるという話がでてきました。
1995年のことです。
この機会を逃すともう海外へは行けないなと、一緒に行くことを決心しました。
そこで、まずNIHがアメリカのどこにあるのか、から調べて。
ワシントンDCやボルチモア周辺で、整形外科の留学先がないか調べてみたのです。
そうしたら、ジョンズ・ホプキンス大学にバイオメカニクス研究で御高名なDr. Edmund Chaoという先生がいて、そこの研究室に京都府立医科大学整形外科出身の井上望先生(現Rush大学)がいる、とわかりました。
井上先生とコンタクトをとるためにFAXでやりとりして、井上先生にDr. Chaoとの間を取り持っていただき、研究室に来ていいよってことになったんですね。
たまたまDr. Chaoが日本整形外科学会に呼ばれていて、そこで朝食を食べないか?って誘われて、学会場のホテルで初めてDr.Chaoに会って拙い英語で会話したんですね。
台湾出身で非常に親日な方でした。
また、メイヨークリニック勤務の頃からDr. Chaoはビッグネームだったので、たくさんの留学生を受け入れていたんです。

ボルチモアでの研究生活

NIHはワシントンDC近くのベセスダってとこにあって、われわれは隣町のロックビルに住むことになりました。
妻はそこから15分のNIHへ、私は片道1時間くらいかけてボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学に通うという生活が始まりました。
Dr. Chaoのチームでのバイオメカニクス研究室には工学系のPhDの人が多く所属していました。
日本の大学院でやっていた関節軟骨の研究とは異なる分野でしたので、最初は大変でした。
PhDとMDがカンファレンスで議論するのですけど、何を言っているのかチンプンカンプンで良くわからなかったです、笑。

研究を一年くらいしてみて感じることがありました。
日本の医学系基礎研究は、医師が臨床やりながら片手間で研究やるか、PhDとったあとに大学でフルタイムで研究やるか、ですよね。
一方、アメリカでは、多くの予算を使ってPhDとMDが大きい研究室で凄いことをやっている。
それを目の当たりにして、普通に研究やっても太刀打ちできないなと思ったんです。
研究で一生食って行こうという覚悟がないとダメですし、医師が臨床の片手間で研究をやる環境とは世界のトップレベルは違うなと感じました。

アメリカで臨床をやりたい

そんな風に研究に対して色々思いもあって自分の将来を考えた時に、日本に帰って臨床生活に戻るという選択肢もあったのですが、、、
臨床チームと基礎チームの皆が集まるGround Roundsというカンファレンスや、Dr. Chaoの研究室に医学生やレジデントが訪れたりしていて、臨床の話を聞く機会があると、だんだん「アメリカで臨床をやりたいなぁ」という気持ちになってきたんですね。

── 米国で臨床をやると進路を決めたのですね。
札幌医科大学の整形外科医局は大丈夫だったのですか?

妻と一緒にアメリカに行くと決めた時、私は講師というポジションで股関節のチーフだったのです。
札幌医科大学は公立大学ですし、ポストにも限りがある。
石井教授と話した時に、ポストを残して空席にしておくわけにはいかないので、アメリカに行くなら札幌医科大学から退職して行ってくれと言われました。
そこから半年くらいかけて後進の先生に手術技術などを伝えて、そこから渡米しました。
ですので、Dr. Chaoの下で2年間の研究が終わったあと、あまりしがらみもなく、比較的自由に自分の進路を決めることができました。

#02に続く

こちらの記事は2021年3月にQuotomyで掲載したものの転載です。